揖斐川町ピアノ教室 講師紹介

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岩井智佐子

 

歌うのが大好きな子供

3歳の時に、伯母にバス旅行に連れて行ってもらい、カラオケなどない時代に、バスの中で、マイクを持って、楽しそうに歌っていたよ〜と、大人になってからも、よく話してくれました。

4歳から、近くのキリスト教会に、日曜日の朝、礼拝に行っていました。

中学校を卒業するまで続きました。

あまり大きな教会ではなく、アットホームでした。

賛美歌を歌う事やクリスマス会の劇に参加など、とても楽しかったです。

幼稚園は、同朋幼稚園〜仏教系で、同朋大学や名古屋音楽大学も隣にありました。

私は活動的で、目立ちたがり屋でした。

お遊戯会など大好きで、祖母に七五三の着物に黒い帯を着せてもらい、踊ったことを覚えています。

子供の頃から、着物を着ることが好きでした。

七五三さん、お正月、御稚児さんなど、祖母の手作りの着物を、着ました。

 

 

グループレッスン

4歳から、近くのお寺に有った、カワイ音楽教室のオルガングループレッスンに、友達と一緒に通い始めました。

習い始めたきっかけは、覚えていないです。

歌がとても好きだったり、近所の友人が習うから一緒に、だと思います。

教室に行くのは、とても楽しかっです。

発表会で、おそろいのワンピースで参加して、帰りにみんなでデパートの食堂で、ランチを食べて帰ったりした、思い出の写真も有ります。

母は、その頃の事を今でも話してくれます。

先生の弾いたピアノの音当てゲームがとても良くできたそうです。

音楽の道に進むようになって、その時の先生に感謝しています。

オルガン教室は、4歳と5歳の2年間で卒業しました。

 

 

古墳の学校

地元の名古屋市立岩塚小学校は、自宅から、歩いて20分程かけて通いました。

校区内の神社に古墳があり、古墳の形が校章でした。

そのせいか、歴史も好きです。

小学校に入りすぐにピアノを習いたかったのですが、家庭の事情で難しく、3ヶ月体験ピアノや短期エレクトーン教室に、通っていました。

ピアノを習いたいと、ずっと言い続けていたようです。

学校生活は楽しかったです。

 

ピアノレッスンに

編み物や手芸が好きで、従姉妹に教えてもらいながら、マスコットを作ったり、マフラーを編んだりしました。

4年からの部活動は、バスケ部に入りました。

練習しても、みんな程、上達しなかったことを覚えています。

それでも、続けていました。

3年生の時に、私のピアノ熱に、両親か根負けして、ヤマハ音楽教室のピアノレッスンに通い始ました。

ても、オルガンで練習していたのでレッスンの時に、ピアノで弾くと、上手く音が出なかったり、速く弾けなかったり、力が抜けていないと注意を受けたり…なかなか思うように進みませんでした。

3年4年と、同じクラスの友人が、早くからピアノを習っていて、本も進んでいたのが、とても羨ましかったです。

小3の頃から、外見のコンプレックスが、とても強くなりました。

妹は、母似で、丸顔でぱっちり瞳で、可愛いと言われます。

私は、面長で、切長の一重まぶたの瞳で、父に似ていて、誰も可愛いと言ってくれません。

どんどん妹が嫌いになり、自分がイヤになり、コンプレックスのかたまりのようになって行きました。

この思いは、大人になっても、ずっと持ち続けていました。

 

コンプレックス

小学校では、鼓笛隊や合唱部の臨時メンバーを頼まれる事が良くあり、音楽は得意なほうで、楽しかったです。

6年になっても、レギュラーになれず、バレー部とかけ持ちしているメンバーが、試合に出る事が多く、私は上手くないんだ…と、自覚しました。

5年生の時に、やっとピアノを買ってもらいました。

その時の両親との約束が、「ピアノの先生になる」という事でした。

私はとにかくピアノが欲しいから、約束したのだと思います。

ピアノがくると、何故か妹も習い始めて…私はすごくお願いして習ったのに、妹は何もしてなくても習えて…不公平だなって思いました。

学校から帰ると、毎日ピアノを弾きました。

ても、友人たちは、私のずっと先の教材を弾いています。

発表会で、「エリーゼのために」や「花の歌」を弾いている友達が、羨ましかったです。

コンプレックスがますます増えていって。

 

 

ベルばらと新選組

名古屋市立御田(みた)中学校に入学しました。

中1の時に、テレビの劇場中継で、宝塚歌劇団の「ベルサイユのばら」を観て、宝塚に 入団したい〜と、思い始めました。

申込書を取り寄せ、歌やピアノは大丈夫と思いましたが、バレエは習っていませんでした。

でも、自分なりに本を見てストレッチや基本の動きを、練習していました。

受からなくても、受験だけしたい!と、両親に頼みましたが、強く却下されて、受験はできませんでした。

それ以後は、宝塚ファンになりました。

中3の時に観た、「星影の人」という作品は、幕末の新選組の物語でした。

これをきっかけに、興味が宝塚から新選組にシフトして、大学生が中心的活動していた、新選組サークルに入り、映画、ドラマ、小説など、新選組ざんまいになっていきました。

 

エースを狙え

学校の部活は、小学校のバスケット部で、スポーツは苦手かも…と思ったにもかかわらず、中学校で、当時の漫画「エースを狙え」でブームのテニス部に入りました。

初めは素振りと玉拾いばかり〜

テニス部のことをピアノの先生に話したら、部活はとても反対されました。

腕の使い方が、ピアノむきではない、ピアノの練習時間が少なくなる、そんな事では、とても音楽大学には、行けない、とのお言葉でした。

とても悩みましたが、両親との約束もあり、帰宅部になりました。

その頃、母の知人の紹介で、個人のピアノの先生に変わりました。

男の先生で、あまりお話しなどしなかったのですが、音大受験希望を、受け取ってくださり、ピアノの教材を、スムーズに進めてくださり、楽典や聴音の勉強も取り入れてくださいました。

学校での合唱伴奏を、弾きたかったのですが、上手な友達が多く居て、3年間に一度もできなくて、まだまだみんなに追いついていないことを、実感しました。

 

いじめから友達が

中学の2年、3年の時に、いじめられていました。

クラスの男子から、私の触ったものを触るなとか、私がやってないことを、私のせいにされたり…

なぜイジメられたかは、わからないです。

ただ、私はそういう人たちをまったく無視し私の方から、関わりはゴメンです、と思って過ごしました。

そうするうちに、今までとは違う雰囲気の友達ができて、今でも交流があります。人とのご縁って、不思議なものだと思ったのもこの頃です。

 

 

合格したのに入れない

高校は、愛知県立惟信高等学校です。

私の受験の時、公立高校は、郡制度で

二つの高校のグループを受験すると、どちらに決まるか、発表次第でした。

その結果、希望していた学校には入れなくて、合格発表の時は、ショックのあまり、自宅まで、1時間以上歩いて帰ってきました。

母は顔を見るなり、「落ちたの?」と聞いたほど暗い表情だったようです。

合格したけど、「違う学校…」

そんなことは考えてもなくて、場所も行き方も分からなくて、大変でした。

市バスと地下鉄を使って、1時間半程かかり、ショックでした。

車で行くと20分で着くので、朝は時々父に送ってもらいました。

車の中で、父と欲しい本やレコードの話ができて、買ってもらえることが、良くありました。

 

通ってみたらいいところ!

希望してない高校でしたが、行き始めると、のんびりした高風や、あまりピリピリしてない授業の進み方など、結構、私に向いてると思えてきて、通学に時間はかかるけど、定期券を使って、名古屋駅や栄にも行けて、良い学校だと思う思えるようになりました。

部活は、合唱部に入りました。

10人ほどの少人数でしたので、先輩や同級生、後輩とも仲が良く、楽しかったです。

2年生から、念願の伴奏も担当でき、とても嬉しかったです。

ピアノ伴奏をしていた先輩が、音楽大学を目指していました。

私も音大を希望していること、今習ってる先生のことなど話すうちに、その先輩は、音大の先生のもとで、レッスンしていて、その先生のいる大学に進みたい、など話してもらえました。

両親に相談して、先輩のピアノの先生を紹介してもらい、その先生の教室に通うことにしました。

高1の秋頃のことです。

 

音大受験

新しい先生の初めてのレッスンの時に、「音大は何科に行きたいか?」と尋ねられたので「ピアノ科」と答えたら、それは難しい、音楽教育なら、いけるかも」との言葉に、とてもショックでした。

自分なりに何とかみんなに追いついてきて、頑張ってる!と思っていたのに…

毎週レッスンに行き、同じようにレッスンに来ている人のことが分かってくるうちに、自分のピアノが全然できてないことが分かってきて、苦しくなってきました。

練習しても思うように進まない…

テキストも、周りに比べ遅れている…

レッスンのたびに、キツく注意をうけて、今日はもうかえりなさい!ということも良くあり…

音大へ行くのが嫌になり、辞めたいと思いましたが、今まで無理をきいてもらった両親に、今更やめたいとは、とても言い出せなくて…

怪我をして、指が無くなったら、両親も怒らずにピアノを辞めさせてくれるかなあ〜などと、レッスンの帰りにいつも思っていました。

やる気になったり、辞めたかったり、気持ちがグルグルした3年の始めでした。

3年の夏休みには、受験の自由曲が決まり、逃げようもなくなって、とにかくその曲を、何ヶ月も弾き続けました。

その時に思ったことは、何ヶ月もかけて、同じ曲を練習すれば、弾けるんだということでした。

受験前の1月の発表会で、自由曲を最後まで演奏しました。

その後で「よく頑張ったな!」と、初めて褒められたのが、本当に嬉しかったです。

これで希望していた音楽四年大学に行ける!と思っていましたが、第二希望の短大しか、合格できませんでした。

それから、中学生の時に始まった新選組追っかけは、さらにヒートアップして、京都の新選組ゆかりの地を訪ねるツアーをサークルで企画して、京都、多摩、東京都とでかけました。

 

 

大学生生活

名古屋自由学院短期大学、今はもうなくなってしまいました。

高校のときと同様に、希望校ではなくて、始めは気分が沈んでいましたが、同級生のピアノの進み方などが分かってくると、この学校で良かった!と思えてきました。

私のピアノテキストの進み具合でも、進んでいる方だったのです。

4大に進んでいたら、必死だったけど、ここで、結婚後もお付き合いの続いてる仲間ができ、楽しく過ごせて、とてもよかったと、思っています。

成績も、まあ良い方で、中学生の教職も取得でき、無事に卒業式しました。

新選組サークルは、大学生になった私たちが中心で、活動しました。

知人紹介で、サークルに入た男性と、個人的に新選組ゆかりの地を訪ねるようになり、お付き合いするような雰囲気になり…その人が、今の夫です。

 

 

ピアノ講師に

大学を卒業して、カワイ音楽教室の講師になりました。

まだまだ新人。

お給料の少なさに、ビックリしました。

両親には、夢だったピアノの先生なので、給料が少ないけど、お仕事させてください。と、お願いしました。

同期が21人と大所帯でした。

2年目には、半数になっていました。

4大卒と短大卒が、同期で、一年間、ピアノ、ドリマトーン、幼児グループレッスンの勉強をする中で…またもや、劣等感を味わいました。

でも、年も2歳年下ということもあり、とても良い仲間で、教えてもらったり、アドバイスをもらったりして、メゲずに続けられました。

同じ短大卒の人と、おみき徳利と言われるくらい仲良しで、アンサンブルで、講師演奏会にも参加しました。

 

劣等感から脱出

そしてピアノの先生は、上手に弾くことも大切だけど、自分がなかなか弾けなくて苦労したり、早くから習えなくて悔しい思いをしたことが、レッスンに役に立っていることが分かってきて、劣等感から脱出できました。

また、幼児の発想の楽しさ、子供目線の会話、学校からの愚痴、進学の相談など、子供の人生いろんな場面で、アドバイスできるという、素晴らしい経験も頂けました。

これが、ピアノの先生の楽しみと思うようになりました。

カワイ音楽教室では、ピアノ、ドリマトーン、幼児グループレッスン、大正琴の講師をグレードを、取得しました。

趣味の新選組サークルは、衰退して解散になりましたが、彼とはお付き合いが続き、24歳で結婚しました。

 

 

結婚、まさかの問題が

新選組サークルを通して、5年間お付き合いしていた人と、24歳で結婚しました。

でも、まとまるまで、とても大変でした。

私は、妹と2人姉妹で、養子をもらい、苗字を変えないように、名前も占って、つけてもらっていて、嫁には出せないと言う、両親。

彼は、次男で地元の公務員ということもあり、絶対に外にでないで、嫁をもらわなくてはいけないという、ましてや、養子なんて出せないという、お家の考え。

あれこれ有りましたが、ついに私が嫁ぐことになりました。

名古屋の家から、車で2時間かかります。

岐阜県といっても、滋賀県と福井県の県境に近い、藤橋村(今は合併して揖斐川町)と言う、トンネルを5個過ぎた山のなかです。

 

 

パリでまさかの出会い

新婚旅行は、フランスに行きました。

パリでなんと、大学の同級生に会いました。

別のツアーの日本人団体さんと、同じお店でランチした時、後ろのテーブルから声をかけられて、おどろきました。

同級生だったのです。

フリーの日に、パリから電車に乗ってベルサイユ宮殿に行きました。

行きに、駅を降りて地図を見て歩いていても、なかなか着かず…迷子になってしまいました。

住宅街で、人にも出会わず困っていたら、若いお姉さんが通かかり、声をかけてくださいました。

英語が話せるか?と聞いてくださってベルサイユ宮殿までの、地図を書いてくださいました。

あの頃は、英語が話せても、フランス語でしか話してくれないときいていたので、とても嬉しかったです。

お姉さんありがとうございました。

 

 

スーパーがない?

日本にもどってきて、一番始めにビックリしたことは、車で30分走らないと、スーパーが無いことです。

あとは、カルチャーショックのたてつづけでした。

車は、キーをつけっぱなしで、ロックは、空いてます。

夜も留守のときも、家の玄関その他の窓からのカギは、あいたまま。

こんにちは〜と声がしたと思ったら、もうお部屋の中には、その人がいる。

アットホームというか、のんびりしすぎというか…プライバシーが無いというか…

唖然として、一年ほど過ごしました。笑

結婚後も、3年間、出産1ヶ月前まで、週に2日、名古屋のカワイ音楽教室の講師を続けました。

 

 

子育てとレッスン

子育てしながら、レッスンは、週に3日ほど続けました。

個人で教室をすることにより、生徒さんが中学、高校、大学、社会人と長く続けてくださる方と、ずっと一緒にレッスンできました

その中には、ピアノグレードを順に取得し、カワイ音楽教室の講師資格まで頑張った生徒さんも、何人かあります。

先生にはなりませんでしたが、CDで聴くピアノ曲が演奏でき、大人になってからもずっと、ピアノを、楽しんでもらることが、嬉しいです〜

ママになり、お子さんに教えてるよ〜というお手紙も頂き、本当に素敵なお仕事だと思います〜🎶

私は、28歳で女の子を、出産をしました。

ピアノ講師のお仕事がとても好きなので、3ヶ月間は、ゆっくりしましたが、4ヶ月目から、知人からカワイ系の外部教室を引き継ぎ、週に1日、今も続けています。

 

生徒さんのこと

子育てしながら、週3日レッスンしていました。

個人教室レッスンになったことで、中学、高校、大学、社会人と長く続けてくださる方も、ずっと一緒にレッスンできました。

その中には、ピアノグレードを順に取得し、カワイ音楽教室の講師資格まで頑張った生徒さんも、何人かあります。

先生にはなりませんでしたが、ショパンやドビュッシーなどCDで聴くピアノ曲が演奏でき、大人になってからもずっと、ピアノを、楽しんでもらえことが、嬉しいです〜

ママになり、お子さんに教えてるよ〜というお手紙も頂き、本当に素敵なお仕事だと思います。

その生徒さんとは、今でも、時々ランチなどして、お会いしています。

子育ては、楽しかったです。

1人娘なので、時間のある時は、遊んだり、お菓子や料理をしたり、旅行をしたり、思い出が沢山あります。

 

 

宝塚ファン

宝塚ファンは、娘の出産の年、令和元年の、ベルサイユのばら再演から復活して、その当時、星組トップスター紫苑ゆうさんが大好きになり、ファンクラブに入りました。

紫苑さんの舞台の時は、月に何度も宝塚や東京に観に行きました。

退団後も、毎年「再会」というディナーショーを、出身地の神戸、ホテルオークラであり、20年間全て参加しました。

ホテルオークラに泊まり、年に一回、とてもリッチな時を過ごしています。

 

娘も音大に

娘が3歳から小2まで、カワイ系の楽器店の講師をしました。

その間は、近くに住んでいた姑に、お迎えや夕食のお世話になりました。

とても良くしてもらいました。

楽器店を退職した頃から、隣村や、近所から生徒さんが来てくださり、自宅がピアノ教室になりました。

アットホームな地域性なので、兄弟3人が一緒に来て、待ってる間に宿題をしたり、娘と遊んでくれたり、一人っ子だったので、良い経験だったと思います。

娘のピアノは、私の先生のところに、一緒に行きました。

あまり好きでは無くて、中2で卒業しました。

高校では、吹奏楽部で、サックスを担当し、サックス専攻で名古屋音楽大学に入学しました。

なぜピアノは、嫌なのかと聞いたら、ピアノは1人なのがいや。

サックスはアンサンブルなので、みんなと一緒が楽しいと、答えてくれて、いろんな音楽の楽しみ方があると、思いました。

そういえば、5歳からクラシックバレエを習っていて、ソロのオーディションに、興味がない子でした。

その時も、なぜオーディションを受けないの?と聞いたら、コールドバレエで、みんなと揃えるのが楽しいと、話してくれました。

私とは、違うタイプだと思いました。

今は、サックス講師をしていて、素晴らしい音楽仲間です。

娘が小学校の頃私は、一緒にピアノレッスンに通い、演奏会に出たり、勉強会に参加したり精力的に活動しました。

ミュージックベル講師の資格を取ったのもこの頃です。

 

 

新しい仲間

娘が中1の時に、友人からあるビジネスに誘われ、はじめました。

そのグループでは、毎日曜日の6時半から8時まで、勉強会をひらいてい、娘と一緒に参加しました。

内容は、コミュニケーション、自己啓発、成功哲学、ヒーリングなどでした。

ここの勉強会のお陰で娘とは、中学受験、高校生のとき、大学生、今でも、お互いにちょうど良い距離を保てて、ストレスナシに、会話や相談ができてます。

とてもありがたい勉強会でした。

 

 

コンプレックスから脱出

娘が中学校3年まで、私は、髪をストレートにして、お尻の辺りまで伸ばして、いました。

ビジネスのメンバーと旅行に行った時に、

「どうしてそんなに髪の毛、伸ばしてるの?切ったらどう〜」

というメンバーがあり、

「えっ!とんでもない!私はこの髪が無いと、生きていけないのに…なんて事を言うの…」

と、思いました。

その後、私の髪への思いがとても強いことが皆に分かり、リーダーさんから、どうしてなのか、考えてみたら…と、アドバイスをもらい〜よーく考えました。

そして、思い出しました。

子供の頃の、コンプレックス!

妹は可愛くて、わたしは可愛くない。

だから、髪の毛くらい綺麗に伸ばして、それだけが自分の支えになっていました。

その、元々の事も忘れて、髪の毛大切と、思い続けていました。

コンプレックスがずっとあったので、人が何かを誉めてくれても、きっとお世辞だわ、とか、お上手ね、きっとウソだわ〜などと、すっごく、悲観的に捉えていました。

その事から、自分が嫌いだったり、自己否定が強かったり、いろんなことが、自分の中で見えてきて、リーダーさんや、グループのみんなから、たくさんのアドバイスをもらい、少しづつ、自分の中にある、見えてなかった事、変わった方が良い事に、気づき始めました。

一年ほどかかりましたが、髪の毛がなくても生きていける!と、思えるようになり、バッサりと、切りました。

自分のことも、だんだん認められるようになり、自分が嫌いでは、なくなっていました。

今のわたしがあるのは、あの時の経験のお陰です。

 

やりたいことはなんでも

子育てと共に、地域にも慣れていて、いろんなことを始めました。

祖母から箏をもらったので、お箏教室に通いました。

ピアノとは、雰囲気の違う日本語の楽器も、楽しくて、高等科まで、お三味線は、初等科まで、進みました。

高等科の先は師範の試験で、費用がとてもかかるので、そこで辞めました。

岐阜県での、音楽療法の基礎の講座にも、参加しました。

高齢のかた、障害のある方との音楽を通しての接し方などは、レッスンでも役に立っています。

宝塚入団が夢だったので、娘に夢を託せるかもと思い、毎月、娘と一緒に宝塚市まで、観劇に通いました。

5歳からバレエのレッスンも始めました。

中学校卒業の時に、ダメ元で良いから、宝塚受験をしてほしい。

母親として、宝塚音楽学校に行ってみたいから、と頼みましたが、却下されました。

大学卒業の時も、宝塚オーケストラに、入ってほしいと、伝えましたが、こちらも却下されました。

私の宝塚熱、バレエ熱は、子供に託してはダメと、ビジネスのリーダーさんの指導があり…

そう!私がバレエを習いたいんだ!と、納得できて、大人のバレエ教室に、通い始めました。

病気で入院するまで、、5年間続けました。

 

 

地元のオペレッタ

38歳から、地元のオペレッタや、コーラスに参加しました。 

宝塚入団が夢だったので、歌ったり、お芝居、ダンスなど、とても楽しく参加しました。

オペレッタや合唱は、今でも続けています。

多い時は、5つの合唱団に所属していました。

他の合唱団の伴奏もしていました。

 

非常勤音楽講師

また、中学の音楽の先生がいないからと、非常勤音楽講師を、地元町立中学校と、私立の不登校生徒さんたちの、学校法人西濃学園中学校で、15年間続けました。

大学で取得した、中学校教員免許証が役に立つとは、思ってもいませんでした。

教員のお仕事は、今までピアノ講師の経験や、音楽療法の勉強、合唱団の練習などが、とても役にたちました。

また、違った職種の人と出会えて、仲間の世界も広がりました。

 

ピアノ講師

娘が大学生になり、私の実家に下宿した頃には、自宅のピアノの生徒が減ってきたました。

とても田舎で、小中学校は、廃校になってしまったので、教室を続けるのは、難しくなりました。

なので、以前お世話になったカワイ系楽器店の講師を10年(45歳〜55歳)続けました。

講師になった頃は、私は音楽の事のしかできない!

と思っていましたが、学校の先生をキッカケに、いろんなことに興味を持ち、資格や試験に挑戦しました。

着物文化検定…2級

ハーバリウム講師

財団法人己書師範

それぞれが仕事に繋がっていくことがわかり、ピアノ以外の仕事ができる!と、自信がつきました。

楽器店の講師は、レッスン以外にいろんな活動の参加がありました。

10年勤めて、退職しました。

その後、呉服屋さんでパートしたり、ハーバリウム講師、己書の先生をしながら、ピアノの先生も続けています。

それぞれの時間帯を組み合わせて、いろんなお仕事を、しています。

 

演奏活動

50代始めの頃、娘が大学を卒業してから、2人で、コロナまで毎年、演奏活動を続けました。

電子ピアノを購入したので、どこへでも、持っていきました。

地元の古民家、カフェ、公民館、高齢者向けのサークル、お寺のイベントなど…

娘のサックスと一緒に音楽活動できて、とても幸せです。

50代半ばに、古民家カフェのママさんと親しくなり、そのお店のピアノ購入先を、紹介をしました。

その後、月に1回、ミニコンサートを開きました。

お客様の年代や好みに合わせ、ポップスや演歌など、新しいジャンルの曲をたくさん弾きました。

毎月、30分違う曲を弾くという、新しい挑戦は、とても勉強になりました。

 

 

現在のお仕事

ピアノ講師

己書師範

呉服屋さんのパート

ハーバリウム講師

揖斐川町藤橋公民館長

※着付け教室の師範目指して、お稽古に通ってます。

※現在の大はまりは、歌舞伎です。

高校の時にみた、泉鏡花さんの夜叉ヶ池の映画で、坂東玉三郎の美しい仕草に引かれて、今は、超お熱です。

毎月上映される、シネマ歌舞伎の映画を見に行くようになり、3年目。

京都の南座…名古屋の御園座は、行動範囲内で、よく行きます。

ちなみこの「夜叉ヶ池」の物語の地に、お嫁に来ました。

ナント主人は、エキストラで、出演していました。

まだ、お付き合いの無い頃です。

運命的というか、ご縁は、不思議です。

 

 

自慢の生徒さん

40年間ピアノ講師を続けてきて、本当にいろんな生徒さんに出会うことができました。

そして何人かは、今も交流があります。

 

①Yちゃん

長女の出産後、友人から引き継いだ教室で、出会ったとき、Yちゃんは、中1の1月でした。

それから、32年が過ぎます。

吹奏楽部に所属していて、キッチリしていて、頑張り屋さんの印象でした。

余分なお話しをしないYちゃんは、30分間しっかりピアノやワークブックをこなしました。

高校受験の時も、大学受験の時も、お休みすることなく、しっかりレッスンに来ていました。

そんな忙しい時期には、練習ができない時もありましたが、少しづつでも、前に進んで行きました。

沢山おしゃべりをするようになったのは、高校3年ころ〜受験のことや、ピアノをどう続けたいかなど、聞くことから始まりました。

でも、Yちゃんにとっては、おしゃべりより、とにかくピアノが好きで、練習時間の方が、大切〜

おしゃべりは、ほとほとにして、レッスンしました。

カワイグレードテストは、受験しませんでしたが、しっかり実力をつけていきました。

大学生の頃には、

ツェルニー40番の中ごろ〜

バッハインベンションは3声〜

モーツァルトやベートーヴェンのピアノソナタ〜

に進んでいました〜🎶

社会人になると、お仕事が遅くまであり、お休みすることもありましたが、その分、練習をしっかりしていました〜🎶

就職して、5年ほど過ぎた頃に、ピアノの買い換えの相談を受けました〜🎶

自分の今、使っているピアノは、知人からいた頂いたピアノなので、新しい自分ピアノに変えたい!とのことでした〜🎶

私は、すぐにウッド・ピアノ工房の大野章成さんを、紹介しました。

とても腕の良い、調律師さんで、ピアノの中を組み立て、作る事が好きな、ピアノ大好き職人さんです。

自宅の名古屋から、2時間近くかかる岐阜県武芸川町まで、ご両親とピアノを選びにいらっしゃいました。

そして、ドイツ製の素晴らし音色のアップライトピアノを、購入されました。

そのピアノで練習するようになると、更に表現力が身について〜

バッハのイタリア組曲を全曲〜

メンデルスゾーンの四季〜

名曲アルバムの本、ドビッシーやリスト、中級レベルの曲あれこれ〜

ショパンのワルツ集などなど〜

ロマン派のピアノ曲を、とても素敵に仕上げられるように、なりました〜🎶

この素敵なピアノで、8年ほどレッスンがつづきました。

ご結婚が決まり、新居にピアノは持って行くのは難しく、新しい電子ピアノを、持っていかれました。

遠くに住まれたので、その後は、レッスンでは会っていませんが、メールや年賀状などのお付き合いが、続いてきます。

ピアノを長く続け、いろんな時代の作曲家に出会い、曲想や音色を感じながら、楽しく弾いている菅田は、とても嬉しく、誇りに思います。

 

②Kちゃん

カワイ音楽教室で、レッスンをしていた頃、姉妹で入会しされました。

お姉ちゃんのSちゃんは小3から、妹のKちゃんは小1から、レッスンを始めました。

2人とも、お家でしっかり練習をしてきて、どんどん共在が進みました。

Sちゃんは、小6のとき

カワイコンクールの地区大会で、入賞しました。

2人とも明るくで、小学校の頃は、楽しくレッスンしていました。

それぞれ、中学の2年生頃から、とてもお話タイムが長くなり、ピアノを弾く時間がほんの少しになりました。

私はピアノが弾けないことが落ち着かなくて、お母さんに、現状をお話しました。

そうしたら、「反抗期で、私には何も、話をしてくれない。

小さい頃からずっと一緒だった先生なので、相談しやすいのだと思うので、話を聞いて、アドバイスをしてほしい〜」とのこと〜

とても嬉しく思いました〜

それからは、高校受験のこと、彼氏のこと、自分のやりたいお仕事や進路、希望大学など、本当にいろんなお話をしました。

2人ともピアノは大好きなので、発表会・カワイグレードテストなとの目標ができると、真剣に取り組みました〜🎶

切り替えのしっかりできる姉妹でした。

それぞれ自分の将来を考え大学のときも、ピアノレッスンも続けていきました〜🎶

カワイグレードテストも、次は講師資格を取るところまで進み、楽典や、聴音の勉強もして、カワイ音楽教室の講師資格も、取得しました。

でも、卒業後は、就職先の時間が不定期だったり、就職のため引越したりしたので、ピアノも卒業しました。

その後も、年に1〜2回、ランチやお茶をしたり、メール、年賀紙など、お付き合いが続いています。

妹のKちゃんは結婚してして、女の子2人に恵まれました。

3歳からピアノレッスンをはじめ、お家で一緒に楽しく練習するようになりました。

ママと一緒の練習は、とても楽しい場合と、イヤになってしまうばあいがあります…

Kちゃんは、楽しく前向きにできて、年長さんの夏には、バイエルン下巻に、入ったよ〜と、暑中し見舞いで、知らせてくださいました。

私といっしょにレッスンをした生徒さんが、音がの楽しさをお子さんにそれを伝えてくたわさり、遠くにお孫ちゃんが、居るような想いになります。

こんな素敵なお仕事を、まだまだこれからも、続けていきたいと思っています。